「月は二度、涙を流す」そのB


 恵美が廊下に出ると、それとほぼ同時に隣の部屋から真一郎が出てきた。手には汚れた雑巾が握られている。恵美は真一郎を見つけると、大した距離でもないのに大袈裟に真一郎を呼んだ。
「目の前に立ってるのに、そんなに大声で呼ばなくてもいいじゃないか」
 真一郎は足早に恵美に近づくと、疲れた様子で彼女の口を手で塞ぐ。恵美は笑いながらその手の平を舐めた。
「今日ね、望さんが昨日の女の子を売るらしいのよ。それで、ついでに一人女の子買ってくるんだって。ねえ、私も行っていいでしょ?」
 真一郎は一瞬、言葉を詰まらせた。初耳だった。しかし、すぐに首を縦に振った。駄目だ、と答えて大人しく引き下がる女でない事は、夫の真一郎が一番よく知っていた。それにオークションは初めての事ではない。そして何よりも、子供のように燥ぐ恵美を見るのは嫌な事ではなかった。オークションの行く前の彼女は、とても二十三とは思えない程、無邪気に笑った。
 真一郎は肩でため息を一つつくと、恵美の頭を撫でた。
「仕方ないな。じゃあ、急いで掃除を終わらせなくっちゃな。女の子の方の処理は俺に任せて、もっといい子を見つけてこい」
 真一郎は恵美の唇に軽く口付けをすると次の部屋へと向かった。恵美はじっとその後ろ姿を見つめる。突然の口付けに少し心臓が強く鼓動していた。
 昨日、正確に言えば今日の真夜中、望と少女が部屋から出ていった後も、恵美は真一郎と二人っきりで快楽の波打ち際を幾度も楽しんだ。それはパーティーではいつもの事だったが、何度味わっても真一郎以上に自分の頭を白くさせてくれる人はいなかった。
 段々と小さくなっていく背中を見ていると、あの時の情景が鮮明に思い出され、恵美は体が熱くなった。
 恵美が掃除を終えたのはそれから約二時間程してからだった。恵美は光と二人で庭で昼食をとっていた優香に、食料の買い出しに行ってきます、と告げた。
「いってらっしゃい。でも、夜には帰ってきてくださいね」
 長い髪の毛を簡単に三つ編にしている優香は、昇にも光にも見せる笑顔を恵美にも見せ、そう言った。


 屋敷の端には車庫がある。扉はリモコン式で、長方形の車庫全体が灰色のコンクリートに覆われている。中には五台は車を入れる事が出来て、今でも様々な高級車が並べられている。その殆どが昇の私物だったが、昇は全くと言っていい程車には乗らなかった。その結果、どんなに高い高級車を買っても恵美の買い出しや、市場に行く際に使われる程度だった。
 大きめのアタッシュケースを持って車庫にやってきた恵美は、黒い流れるようなフォームの車に既に誰かが乗っている事に気づく。望は既に車の助手席に乗っていた。まだあの本を読んでいた。
「随分と早いのね。服は持ってきた?」
 運転席に座りながら恵美は訊ねる。
「トランクに入れてある。恵美さんの方こそ」
「私の方も準備は万全よ。さあ、行きましょう」
 恵美は素早くアタッシュケースを後ろの席にほおりこみ、シートベルトをつける。そしてキーを回しながら、扉を勢い良く閉めた。心地良いエンジン音が響く。望は楽しそうな恵美を横目に、真っすぐ前を見ていた。


 自然に囲まれた屋敷とは打って変わり、市場の開かれるビルは大都会の真ん中にそびえ立っている。緑は極限まで減らされ、代わりに車が汚らしい排気ガスを吐きながら通って行く。灰色の道路が蜘蛛の巣のように、地面の上に敷き詰められている。そこを這いずり回る、自分とは違う人々。
 望の眼下には、死体に湧くウジ虫のように人の姿が消えない。皆、自分達の事だけを考えて生きている。他人が幸せになると叩き落とそうとし、不幸になれば腹を抱えて笑う。ウジ虫のような人々はそうしながら生きている、と望はビルの最上階の窓から下を眺めながら考えていた。
 自分以外の人間なんかどうでもいい。そう思う下界の人間がカスのようにも感じる為、そのカスから生まれた人間を自分がどうしようと、望には全く心の呵責など無かった。
 お前達は敗者なのだ。死ぬまで地の底で這いつくばらないと生きていけない。這いつくばり、互いの血と肉を喰らい合いながら生きている。しかし、自分は違う。他人の人生すら自由に支配できる。這いつくばる事も無く、いつまでも大空を飛んでいる。
 昔は自分も空を見上げるだけの毛虫の一匹だった。しかし、自分は蝶になれた。そして、お前達はなれなかった。そう、望はここに来る度に強く感じた。
「‥‥」
 イベント会場のようなビルのその一郭は、不思議な空気に包まれていた。ざっと見渡しても二十人はいるだろう。男は皺一つ無いスーツを着込み、女は美しいドレスを身にまとっている。そして皆、顔を覆い隠す仮面を付けていた。それは正体がばれないようにする為だったが、誰も自分の正体がばれるのを恐れてはなかった。
 殆どの者が男と女のカップルで来る。この部屋に入った時から仮面を被っているので、年齢までは分からないが、望のように若い者もいれば、六十を越えているであろう、老人もいた。中には小さな女の子や男の子を従えてやってくる者もいた。彼らは仮面を付けていない。
 彼らは息子や娘というわけではなく、徹底的に仕込まれ、今日ここで売られる者だった。
「あなたがこの子を買っていったのはいつでしたっけ?」
「ちょうど半年前ですよ。随分と良くなりましたよ。感度もいいし、こちらが思った時に天国に行かせてくれる。私もこの子を出すのは惜しかったのですが、私は育てるまでが好きなんでね。どうですか? 買いませんか? 私は一千万程で考えているのですが‥‥。大丈夫、病気などは一切ありませんよ」
「ほほう。それほどの値段をつけるという事は、相当自信があるという事ですな? 考えておきましょう」
 そんな会話が当たり前のように、ここにはあった。
 望は黒いスーツを着て、顔には南米の奥地で使われているという、祈祷師の仮面を被っている。その隣には恵美がいる。胸と背中が大きく割れた純白のドレスを着ていて、入ってきた時には多くの男の目を引き付けた。彼女は聖母マリアをかたどった仮面を付けている。
 時間は午後六時。外はまだ夕暮で、夜空は朱の空の向こうで影を潜めている時間だった。しかし、例え夜になっても、この街に本当の暗闇が訪れる事は無い。
 突然、天井のライトが突然消え、辺りや恵美のドレスが朱色に染まる。始まりはいつもこうだった。そして、一ヶ所だけ光がつく。そこには屋台で売っているような安物の、アニメの女の子のお面を被ったスーツ姿の男が立っていて、手にはマイクを持っていた。男は仮面越しにマイクを口に近づけ、話し始める。
「皆さん、お待たせしました。早速ですが始めさせていただきます。まずオークションの前に皆様方がお持ちいただいた商品の方からオークションにかけたいと思います」
 男は自己紹介も何もせず、いきなり本題を話し始めた。
 般若と鬼の仮面を付けた二人の男が前に歩み出た。一人はドレス姿の少女、一人はタキシードの少年を小脇にたずさえている。少女は何も恐くないのだろう、僅かな笑みを携えている。しかし、少年の方はひどく怯えている様子で、指先が絶えず小刻みに震えていた。アニメのお面がマイクを女の子の手を引く般若仮面の男に手渡す。般若は、少女の頭を優しく撫でながらゆっくりと話し始める。
「この子は半年ほど前に私がここで買った子です。半年で徹底的に仕込みました。決してあなた方の期待を削ぐ事はありません。今日は特別に百万で試食を許可したいと思います。そして値段は一千万からにさせていただきます。どうですか? 試食されたい方はいませんか?」
 “試食”とは、セックスの事であった。百万を払って一度セックスをしてみて、気に入ったら買ってくれという意味だった。
 一人の男が手を上げる。男はウルトラマンの仮面をつけていた。少女の主人は少女の肩を優しく叩く。少女はすすすっと前に歩きだして、ウルトラマンの前に立ち、ドレスの裾を軽く上げて会釈を交わした。ウルトラマンは少女の手を取るとアニメ仮面の裏手にある部屋に入っていく。そこは皆が入ってきた扉とは正反対の場所にあり、そこが“試食室”になっていた。
 次に少年のオークションが始まる。決してご婦人のお気に入りになります、と男が冗舌に語るが、二百万でも誰も買おうとはしなかった。少年の顔がみるみる蒼白になっていく。少年はこの世界ではあまり人気が無かった。男か女か分からない程の美少年を除いて、普通の男の子は女の子に比べて需要は半分にも満たなかった。
 結局、少年は百万でも買われず、男はその後のオークションには参加せず、少年を連れて部屋から出ていってしまった。無理矢理手を引かれて部屋から出ていく少年は、半狂乱になりながらそれに抵抗したが、部屋の外に出されるとその声もすぐに聞こえなくなった。 その光景を、ただじっと見つめる大勢の仮面達。
 一瞬、静かな空気が流れた後、アニメ仮面が再び場をオークションへと戻した。
「さて、それではオークションを始めたいと思います。皆さん、本を読んできたと思いますので、希望される商品がありましたら番号を言ってください」
 次々に仮面達は番号を言い合う。中には数人の者達が同じ番号を言う場合があり、その場合はその者達だけで競り合いを行い、最も高い値段を出した者が買えた。三十人程いる商品がどんどん出ていく中、望の希望していた番号は誰一人言われなかった。
 競り合いなどで商品を買う事の出来た者は、すぐに部屋から出ていった。駐車場の片隅にある一室に“商品”は置かれていて、そこから買った子を連れ出して、そして車に乗せて帰っていった。その後、商品達がどうなるかは互いに言う事は無い。だが、大体二通りしかなかった。性欲処理として使われるか、殺人衝動の処理として使われるかのどちらかである。
 次第に人の数が減っていく。望、恵美、そしてここにいる者達にとっては大して不思議でもないこのイベントも、普通の人、つまり多く敗者達にとって、これは異常以外何物でもない。もし何らかのハプニングがあった時に被害を最小限に抑えるには、用の無い者はすぐにこの場から立ち去った方が良かった。
 十分も経たないうちに、仮面をつけた人は望と恵美、自前の少女をオークションした男、そしてアニメのお面だけになった。アニメのお面が無表情に望と恵美を見据える。
「お客さま、何番を希望されるのですか?」
「十五番を」
「‥‥十五番ですね。‥‥注意欄の所に喋れないとありますが、よろしいのですね?」
「ああっ、構わない」
「ではこの番号札を持って地下の部屋にお行き下さい。お金の方ですが、地下にいる者にお尋ね下さい。お買い上げ、ありがとうございました」
 アニメのお面は深々とお辞儀をして、望に十五番と書かれた紙切れを渡した。ちょうどその時、試食室からウルトラマンの男が出てきた。黒いスーツは乱暴にはだけて、ネクタイもとれている。男は声を荒げながら、少女を売った男に告げた。
「はぁ、はぁ、是非頂くよ。あれで一千万とは安すぎる! 是非一千三百万出させてくれ。当然、文句は無いですな?」
 少女を連れた男は、仮面の上からでもよく分かるほど、にんまりと微笑んだ。開けっ放しにされた扉からゆっくりと少女が顔を出す。ドレスには至る所に皺が出来ていて、少女の右手には白く濁った液体がこびり付いている。少女はそれをまるで溶けたアイスのように舐めながら、二人の男を冷ややかな瞳で見つめていた。
「勿論ですとも。ありがとうございます」
 それを見ていたアニメお面の男は何も言わず、部屋から出ていった。望と恵美もそれに続いた。オークションは終わりを告げた。


 部屋を出ると真っ赤な絨毯の敷き詰められた長い廊下に出た。他にも幾つか扉があったが、どれ一つ開こうとしなかった。少し前に部屋を出たアニメ仮面の男の姿は、どこにも無かった。おそらくそのどれかの部屋に入ったのだろう。二人はそんな事はどうでもいいかのように、ゆっくりとした歩調で廊下を歩きだす。
「私もちょっと味見くらいしてみたかったわ。あんなに夢中になるなんて、どんな女の子なのかしら?」
 望の腕に自分の腕を絡ませながら、恵美が囁いた。望は素っ気無く答える。
「単なる下半身が濡れやすい、つまらない子だよ」
 二人はエレベーターの前に立った。相変わらず辺りには誰もいない。しばらくしてエレベーターが開いた。その瞬間、嗅ぎ慣れた匂いが二人を包んだ。
 エレベーターの壁に真っ赤な血がべっとりと付いていた。銃で頭を撃たれたのだろう。血の跡はまるで花火のように広がっている。血の後こそあったが、エレベーターの中に人はいなかった。
 しかし、これが何なのか二人はすぐに分かった。この血は百万でも誰も買ってくれなかったあの少年の血なのだ、と。おそらく、誰にも買ってもらえなかった事に腹を立てて、あの主人がここで彼を射殺したのだろう。
 望と恵美は何の躊躇も無く、そのエレベーターに乗り込む。
 こんな事は大して珍しい事ではなかった。むしろ、今日もこれだけ多くの子が買われていったが、性欲処理が理想通りに出来ずに殺されてしまう女の子などがその半分だった。望のように調教したわけでもなく、飽きたからという理由で売ってしまおうと考える例は稀だった。売る事も買う事も、危険な事なのだ。だから、多くの場合は殺害して、全てを闇に葬るという形がとられた。
「あの男の子は幸せだったのかしら?」
 長方形の密室の中で、恵美は仮面を外しながら言う。望も仮面を外す。エレベーターがウイインと静かな音を立てて、下に動きだす。
「そんなわけないだろう。いや、ここに来る前から彼は不幸だったんだろう。敗者になっていたんだから」


第一章・完
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